Q: 世界一周中に出会ったトラブルは?
A: シベリアの原野で走行中に転倒し、足首付近を骨折した。たまたま50km先に町があり、そこまで足をたらしたまま自走し、病院でレントゲンを撮ったが診断は打撲。自分の職業が看護婦なので骨折していることは間違いないと思い、翌日再度検査するも診断は同じ。ロクな手当ても受けられず、結局持っていたガムテープで足を固定して、3000km走破して、日本まで走った。ウラジオストックから富山へ上陸し、すぐに病院へ言ったところ、診断結果は左足両くるぶしが骨折していた。ロシアで夕刻、ラリッた二人組の男の乗る車にからまれ、カーチェースに。逃げ切れずにCAFEの前でもみ合いになる。男はガソリンをまき始め、ライターでおどしてくる。バイク(セロー)のキーは取り上げられ、バイクを倒された。CAFEの女性が警察に通報してくれ、結局、完全武装した警官が乗りこんできて救われた。
同誌のNaoの写真(省略)説明から:
・トルコにて:素晴らしい自然との出会い、人との出会いがもっとも感動し、うれしかった。 (峠道の雄大な眺め)
・生きることを考えさせられた。
・ペルーで山越えの道が大雨で川だらけ。どうにかクスコに到着。(かわいらしいインディヘナの少女の写真)
・今後は無理・無駄のない暮らしをしていきたい。またアジア(含日本)を旅したい。(中央アジアの少女?)
・いろいろな動物を路上で見た。(アフリカで野生象の写真)
「BACKOFF」2000AUTUMN号に世界一周ライダーが多数登場していますから、バイクツーリングに関心のある方は、「BACKOFF」2000AUTUMN号をぜひご参照ください。
アフリカ大陸の鬼門、エジプト〜紅海クルーズでサウジ経由エリトリアへ
アメリカ、アフリカ大陸を制覇
最初は、北極圏をめざして北上。夏とはいえ、雨が多く、日中でも5℃以下の寒さの中、どろどろになった北極圏の道を走り、北極海に面したアラスカ・プルド_ベイに到着。そこから最南端をめざし、南下を始めました。40℃を超える気温のバハ・カリフォルニア半島。熱帯の中米ではNAOが胃潰瘍になり、ジャングルの中の薬も満足にないような病院で、盲腸と間違えられ、手術をされかけたり、4000mを超すアンデスの峠では高山病に悩まされ、橋のない川を何本も渡り、時速100キロを超す風が吹きつづけるパタゴニア地方を通り、ついに南米大陸最南端の町、ウスアイアに到着。バンクーバーを出発してから39,226キロ、282日目の到着でした。南極大陸まであとわずかというその町で、移住した日本人老夫婦宅で一ヶ月程滞在し、さらに移動。パラグアイでは日系移民の村を訪問し、ひさしぶりの納豆やてんぷらをご馳走になりながら、移住当時の話や今の暮らしまでお聞きし、日本の歴史を考えさせられました。そしてブラジル入国。ここでも各地で日系移民の方々にお世話になりながら、97年8月15日サントスという港より、ついにアメリカ大陸を離れヨーロッパへ。十六日間の船旅の後、大西洋を越えイタリアへ入国したのでした。
ヨーロッパは観光もそこそこに、次なる目的地、アフリカ大陸へ向け出発しました。ドイツから、オーストリア、イタリア、ギリシャと経由し、トルコへ。アジアとヨーロッパの境、イスタンブールで情報収集した後、中東、シリア、ヨルダンの国々へ入国。あまりに違うイスラム文化に戸惑いながらも無事通過し、アフリカ大陸の第一歩、エジプトに入国した。しかしおりしもルクソールという所で旅行者への襲撃事件が発生した直後で、危険排除のため、陸路での国境越えは不可能。仕方なくスエズ港より船に乗り、紅海を渡ってサウジアラビアへ入国。そこからさらに船を乗り換え再び紅海を越え、エリトリアという国に入国した。そして再びアフリカ大陸の旅をスタートするのですが、ここからさらに悪戦苦闘。アフリカの中でも貧しい国のひとつといわれるエチオピアでは、満足な食料が手に入らず、ビスケットの食事が続き、国境付近では、異常気象の長雨でどろどろと化した道が続き、さらにその路上で原住民からヤリ(!)を投げられたりと、つぎからつぎへと難関が出現。やっとの思いでケニアの首都、ナイロビに到着したのでした。さすがにアフリカは手強いと、ここでしばらく休養し、気力が戻ってきたところで再び南下を開始。しかしそこから先は、細かいハプニングは多々あったものの、順調に旅を続け、サバンナを貫く道路に現れる、キリン、象、シマウマなど、様々な動物に感動した。マラウィ湖という湖では地元民から丸木舟を借りて釣りを楽しんだり、アフリカのサバンナの自然を楽しみながら南下。そして98年4月5日、無事アフリカ大陸最南端、南アフリカ共和国にある、アグラス岬に立ったのでした。この時、ヨーロッパ出発時には68キロあった体重は、52キロまで落ちていました。
期待と不安のユーラシア大陸横断に向かう
その後、ケープタウンより飛行機でオートバイともどもヨーロッパに戻り、今はドイツの友人宅で、オートバイの整備や、各国の情報収集を行っている所です。という感じで、これまでの旅の経緯を紹介させてもらいました。これからのユーラシア大陸横断の旅のレポートをお伝えしていこうと思っています。今回の旅の始まりは、今いるドイツからですが、まず、ポルトガルのリスボンから近い所に、ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指したいと思っています。そこの土を踏んだ上で、東をめざすつもりです。最終目的地はロシアの極東にある、ウラジオストック。果たしてロシアをオートバイで旅することができるのか?カザフスタンなど中央アジアの国々は?ガソリンは手に入るのか?道の状況は?治安は?行ってみないと分からないことも多く、不安だらけですが、楽しいレポートをお伝えできればと思っていますので、期待してください。それでは出発。
中央アジアとロシアのビザは取得できるか?
3月31日、ぼくらはドイツを出発した。日本を出国した後、2ヶ月間、同じオートバイ乗りである、ドイツの友人、ステファン宅に居候しながらオートバイの整備と今回の旅の一番の難問である中央アジアとロシアの入国ビザの情報を探したのだ。オートバイのほうはアフリカでエンジンがかなり消耗したため、分解整備した。走行距離はすでに七万キロに達しているが、また再び元気に走ってくれるはずだ。問題なのはビザの方。結果からいうと、ロシアと中央アジア諸国のビザを全部は取得できなかった。日本滞在時にも、これらの国に詳しい旅行会社や在日大使館に問い合わせたのだが、個人のしかもオートバイでの旅行などは無理、という答しか得られなかった。しかし、これまでの経験から、国が変われば取得状況も変わることを知っていたので、ロシアからの出稼ぎ者も多いと聞くドイツに期待したのだった。そしてやはりドイツでビザの取得は可能だった。お金を払えば、招待状をくれる会社が存在していた。しかし、その金額は非常に高い。1ヶ国につき、七万円も必要なのだ。何ヶ国も通りぬけるぼくらにとって、そんな金額を払う予算はない。また、取得手続き日数も1ヶ国につき約2週間程度必要らしい。あきらめざるを得なかった。しかし、東欧諸国やフィンランドではもっと安く、短期間で取れるかもしれない。今の時点では何の保証もないが、それらの国でもう一度チャレンジしてみようと考えたのだった。
さて、ドイツを出たぼくらは、フランスを通りぬけ、ドーバー海峡を船で渡りイギリスへ向かった。実はドイツに滞在中、アフリカで知り合ったドイツの別の友人ステファンへ連絡をとったところ、ちょうど、翌週が自分の誕生日なのでぜひきてくれということだった。その誕生パーティで、やはりアフリカで知り合ったイギリス人ライダー、フランクもすでにロンドンに帰っており、つぎの週が彼の誕生日なので、一緒に訪ねて再びパーティを開こうということになった。フランスからドーバー海峡を船で渡り、入国の手続きを済ませて出たところで、待っていてくれたフランクと再会。ところでこのフランク、ロンドンでは6年間ずっと、フォルクスワーゲンのワゴン車に住んでいるという。「ロンドンは賃金もよいが、物価も高いので、アパートに住んで普通に生活していたら旅行費用など作れない。ぼくは金を稼ぐためにロンドンに住んでいるんだ。シャワーは市内の温水プールにあるのでそこを使っているよ。人目につかない、いい駐車スペースも知っているんだ」といっていた。ぼくらのような長期の旅行をしていると、しばしば「どうやって旅行資金を作ったのか?」と聞かれる。ぼくの場合、幸いにも実家が東京にあるので、両親に甘え、フランクのような苦労はしないですんだが、やはり節約はしていたし、パートナーのNAOにしても、看護婦として三つの病院をかけもちで働きながら費用を作った。苦しいことも多いけれど、そうやって実現させた旅だからこそ、続けることができるのだろう。宝くじで当たったお金ではダメだと思う。
南米と自然環境が似ているスペイン、ポルトガル
ロンドンでフランクと別れを告げた後、再びドーバー海峡を越えてフランスへ。田舎道を走りながらパリに向かい、そこからさらに南下してスペイン、ポルトガルへと走る。ヨーロッパの国越えはとても簡単だ。中南米やアフリカでは国境を越える度に、何枚もの書類を作成し、国境事務所内のそれぞれの係室をたらいまわしにされたり、挙句の果て、役人からスタンプをもらうためにワイロを要求されたりと、それこそ胃が痛くようなことが続いたが、ヨーロッパではスタンプはおろか、パスポートの提示さえも必要ない国がほとんどで、いつ越えたのか分からないぐらいだ。しかし、それでもその1つの境を越えると、確実に人もことばも通貨も、そして町並みまでもが変るからおもしろい。結局国や文化というのはそれぞれの民族が形作っていくものなのだなあと感じた。スペイン、ポルトガルはヨーロッパの中でも特に訪れて見たかった国だ。中南米のインディオの文化をことごとく侵略し、自分たちの文化を広げていった、そのもとの国を見てみたかったからだ。
実際にオートバイで走って気づいたのは、自然環境が似ているということ。スペイン北部の山間部は、アンデスの土地とどことなく似ているし、ポルトガルもまた、ブラジルの自然に近い。もちろん、そっくりではないのだが、なんとなく似ている感じを受けるのだ。そんな風に思っていたら、NAOが「スペイン人やポルトガル人たち、南米を見つけた時、さぞ喜んだろうね」といった。本当にそうだと思う。まだ、海の向こうは世界の果て、奈落の底になっていると考えられていた時代に、大変な冒険をして海を越えてみたら、自分たちの国のような土地があったのだから。しかも、金銀の宝を沢山もった文化までそこにあったのだ。彼らが南米を侵略し続けていった歴史の理由が少し分かったような気がした。
4月24日、ぼくらはユーラシア大陸最西端、ロカ岬に立った。岬に建ててあった碑にはこんなことが書いてあった。「ここに地終わり、海始まる。」 でもぼくらにしてみれば、「ここに海終わり、陸始まる。」の方がふさわしい。ぼくらは陸が始まるこの場所から東の果て日本を目指すのだから。バイクの走行距離は、74,735キロを示していた。
西ヨーロッパの国々を駈け抜けて
4月24日、ポルトガルのロカ岬を出発したぼくらはリスボンを2日程観光し、再びスペインへ入国した。南部アンダルシア地方を旅しながら、山中で河原に湧く温泉に出会い、久しぶりの露天風呂を楽しんだり、グラナダという町では年に一度の大きな祭りの日に遭遇し、夜通し続く騒ぎと興奮の中で、街中の女性が踊るフラメンコの美しさに酔いしれた。その後、スペイン最南端、アフリカ大陸が目と鼻の先にあるタリファ岬を経由し、イギリスの植民地であるジブラルタル、ピレネー山脈にある小国アンドラを通った。さらに、フランス、家事のやF1レースで有名なモナコ、そしてイタリア、オーストリアと走ったのだが、西ヨーロッパの国々をオートバイで走るのは正直言って退屈だった。もちろん、有名な建築物や壮麗な教会、アルプスの美しい山々や湖など、見所は多いし、それらを求めて沢山の旅行者が訪れている。実際、何度も日本からの団体ツアーの方々を見かけた。でも、いわゆる名所みたいな所へ行っても、何かしらけたキモチになってしまうことがほとんどで、写真さえ取らないことが多かった。その結果、都市部や名所がある地域を避けるように地方道を通ることが多くなり、「人との出会い」みたいなものを期待したりもしたが、なぜかそういうこともほとんどなく、文字通り「走りぬける」だけの毎日が続いた。
そんな無感動に近い状態で旅を続け、明日はオーストリアを抜け、ハンガリーへ入国するという日の夕方、テントを張ったキャンプ場の裏にある川で釣りをしていると、一人の少年が近寄ってきた。「この上流に、もっといいポイントがある」というようなことらしいが、よく理解できない。ぼくは今釣っている場所でやりたかったので、気にしないで竿を振り続けていると、ほどなく40センチほどのマスがヒットした。それに驚いたのは少年の方で、その後、盛んに「上へ行こう」といってくる。その妙に人懐っこいいい方や仕草に押されて、少年について行くと、そこはただの広い浅瀬で、釣れそうな気配はない。少年を見ると、僕の竿をじっと見ている。「ハハーン、この子は竿を振ってみたくてここへ連れてきたのだな」と気づいた。竿を貸してみると、案の定、リールの使い方も知らない。その後、しばらく身振り手振りで投げ方からルアーの引き方まで教えると、だいぶ上手くなってきた。場所を移動し、「あそこへルアーを落として、こう引張ってくるんだ」などとアドバイス。そしてまた、少年に竿を渡すと、何投目かのち、本当に魚がルアーに食いついた!これにはぼくらがびっくりしたが、すぐさま少年に近寄り、慎重に竿を立てさせゆっくりと魚を引き寄せさせた。40センチを楽に越えるニジマスだった。少年はボーッとしている。「やったな!」と肩をたたき、僕が右手を差し出すと、少年もはづかしそうに右手を出してきた。パチーンと、お互いの手のひらを合せると、やっと自分が釣り上げたのを自覚したようだった。「魚、家にもって帰るか?」ときくと、「いらない」という。傷つけないよう丁寧に針をはずし川へ戻した。余ほど動揺していたのだろう。少年は去り際、自転車のペダルを踏み外して転んだ。その後、ぼくらもキャンプ場への道を歩いて戻っていると、少年が引返してきて、家によってくれという。「うーん、でもこれから夕食を作らないといけないし...」などと答えているうちに彼の家まで来てしまった。
温かく迎えてくれたクルド人家族
そこはレストランの裏の物置を間借りしている、明らかに貧しい家庭だった。「これでは迷惑になるだけだ」と思う間もなく、少年は家の中に入ってしまった。間もなく父親らしき人が窓から顔を出し、一瞬けげんな顔でぼくらを見たが、すぐに笑顔で「中に入ってくれ」というような仕草をした。こうなるともう断ることはできない。「まあ少しだけ寄らせてもらおう」と、二人で玄関に入った瞬間、ぼくは直感的に、この家族がトルコから来た人たちだと分かった。ぼくらは1年半ほど前、トルコを旅していた。ここは明らかにトルコの雰囲気が漂っている。別になにがどうだからという訳ではないのだが...そして、台所を通り、ストーブとソファとテレビだけがある、質素な居間に通してもらった。家族の全員に挨拶をした後、ソファに腰掛け、そのことを聞くと、やはり彼らはトルコからの移民だった。しかし、彼らはトルコ人ではなく、クルド人だった。トルコ南東部の村を十二年前に出て、ここに住んでいるという。彼らの生活が楽でないことは、この家を見ただけでよく分かる。クルド民族はトルコ国内で、迫害を受けているし、ヨーロッパでも嫌われ者の存在だ。が、この居心地のよさはどうしたことだろう。突然の訪問者に家族全員が温かく迎えてくれ、チャイや食べ物を与えてくれる。そんな彼らの誠意が心にしみて、心地よいくつろぎを感じる。ひとしきり、そんなふんいきに浸った後、失礼しようとすると、「明日にでも食べなさい」とさらにパンを分けていただいた。そしてその家を出て、帰り道を歩いていると、何か急に夢から覚めたような不思議な気持ちで、西ヨーロッパの旅も終わるという日に、「心に残ること」をヨーロッパ人ではなく、クルド人家族からいただいたということが、そのキモチをさらに複雑にさせた。
翌日、ぼくらはオーストリアからハンガリーへ。西欧から東欧へ入るこの国境は、さすがに今までと違い、国境が近付くにつれて、民家がどんどん少なくなり、殺風景な景色が広がり始める。そして国境では、軍隊によるパスポートのチェック。ユーラシア大陸で、「国の境」というものを初めて意識した日だった。
確実性か魅力か、二者択一のルート選択
ハンガリーに入国した日、ぼくらは東欧世界の洗礼をいきなり受けた。入国して最初の町を走っていると、僕らの直ぐ後ろにパトカーがついてきた。妙だなと思い法定速度内で、しばらく走ったところで停車し、地図で道を確認するフリをしてパトカーをやり過ごす。その後再発進し、街の出口まで走ると、なんとさっきのパトカーが待ち伏せていた。そのまま進んで行くと、案の定、停車を命じられ、イチャモンをつけてきた。「20キロのスピード違反だ。罰金は二万フォリント(約1万円)だ」と警官がいう。ぼくらは当然スピード違反などしていない。日本では考えられないことだが、いわゆる第3世界をオートバイで旅する中で一番やっかいなのがこうした警官や国境の役人による不当な金銭の要求だ。そういう国では、公務員の給与がとても低いらしく、こういったなんくせやイチャモンをつけ、ワイロや罰金をとる副業を行うのだ。中南米やアフリカの旅で、こういったことに慣れていたが、久しぶりだったのと、曲がりなりにもヨーロッパでそれがあるとは想像せず、慌てたが、相手も「副業」に慣れていないらしく、いまいち態度に自信がない。それを見て今度はぼくらが反撃に出た。「罰金は分かったが、今日入国したばかりで、ハンガリー通貨はもっていない(実はもっている)。もっているのは旅行小切手とクレジットカードだけだ。(実は米ドル現金もたくさんもっている) ブダペスト(そこから約250キロ)まで行くなら金を払えるがどうする?」と。相手はかなり不服そうだったが、けっきょくあきらめて「もういい。行け。」ということになり、無事やり過ごすことができた。
その後、ドナウ川沿いを走り、首都のブダペストに入り、翌日から早速ウクライナ、ロシアのビザ取得に動き出した。まずはロシア大使館へ行く。しかしここでも「取得のためにはロシア外務省の招待状が必要」と門前払いを受けてしまった。その後数日間、街中にある旅行会社を片っ端からビザ取得で訪ねまわった。だが、道は全く開けず、結局ここハンガリーでもビザ取得はあきらめざるを得ない状況に陥ってしまった。今まで集めた情報では、北欧のフィンランド、もしくはバルト諸国のラトビア、エストニア辺りまでロシアビザが取得できるらしく、ぼくらもドイツ出発時、もしハンガリーでビザが取れない場合、フィンランドまで北上してロシア入国するという計画も立てていた。しかし、ここブダペストの宿で知り合った旅行者の話だと、「トルコのイスタンブールでは、ロシアビザは不明だが、中央アジア諸国のビザは取得できるらしい」のだ。これまでの情報収集から、北欧でビザ取得はほぼ確実らしく、このまま計画変更して北上すれば、ロシア入国はそれほど苦労なく果たせそうだ。しかし、その場合、時期的、ルート的な問題から中央アジアへ向かうことは不可能になる。それに対して、もしトルコから中央アジア諸国に入国することができれば、シルクロードを通りながら、そのままシベリアに抜けるという、大変魅力的なルートが取れるのだけれど、情報の確実性は低く、ましてオートバイでこんなルートを走ったという話は聞いたこともない。この二つのルートの選択には大変迷った。ユーラシア大陸横断という目的を優先させるなら、迷わず北上するべきだろう。でも今回の横断旅で一番走ってみたい場所は「シルクロード」なのだ。さんざん悩んだ末、ぼくらはトルコに下がることに決めた。もしトルコでもダメだった場合、今回の横断の旅はそこで終わらせなければいけないかもしれない。でも可能性があるのなら、そこに賭けてみたい。やるだけやって、ダメならあきらめもつくだろう。オートバイのほうはここでタイヤ交換をした。街中で見かけたライダーにタイヤ屋を教えてもらい、購入した。チェコ製のタイヤだが、見かけは悪くない。まあ大丈夫だろう。
その後、ブダペストを出発したぼくらは、ルーマニア、ブルガリアを走った。ハンガリーからブルガリアまで東欧諸国を走った中で、驚いたのはルーマニア。何とこの国では馬車が今でも移動手段として一般に使われていた。沿道に気の遠くなるような広さで広がる畑は、全てクワと家畜で耕している。とりわけ強烈だったのは、ジプシーの人達を見かけたこと。他より一回り大きい馬車の中にわらでベッドを作り、ちょっと異様な服を着た彼女たち(不思議と男は見かけなかった)が道をゆっくりと行く。その馬車で移動する様はとても現代と思えなかった。こんな流浪の民が生活できる国がまだヨーロッパにあったとは。また、途中ドラキュラ城のモデルになった、ブラン城へ寄ってみた。ドラキュラのモデルとなった伯爵が昔いたらしい。(実際に生き血をすすったかどうか知らないが。)城自体は特にどうというものでなかったけれど。ぼくの人生の中で、ドラキュラ城なるところへ足を運ぶ機会がおとづれたことが、面白く、その日は城の前に広がる草地で一夜を過ごした。
ついにトルコへ入国
トルコに入ると、今までの国々と様子ががらりと変った。道端に並ぶ屋台や露天商、秩序のない車の運転、イスラム寺院モスク。ミナレット(モスクにある塔)から、定時の祈りの時を告げるアザーンが聞こえてくる。いよいよヨーロッパが終わり、アジアが始まったことを感じた。翌日イスタンブールへ到着。ここには日本人旅行者の溜まり場的な宿がある。ぼくらもその宿に入ることにした。こういった宿は、世界中にあり生の情報が聞ける。この宿もテレビや小説の影響だろうか、インドからここまでのいわゆる「アジア横断」を終えた旅行者が集まっている。だが、残念なことにぼくらが行こうとしている中央アジアを旅してきたものは一人も居らず、ここでも確たる情報を得ることはできなかった。やはり中央アジアの壁は厚い。
7月8日、ようやくトルコ・イスタンブールを出発できた。6月20日の到着以来、中央アジア諸国およびロシアのビザ申請を行った結果、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン各国のビザ取得に成功したのだ!しかし、問題のロシアビザはここでも取ることができなかった。また、ビザはあくまで人間のみに発給されたもので、オートバイと共に入国できるかどうかは全く不明。もし国境で拒否されたらそれまでだ。ともあれ、ここまできたら、もう先へ進むのみ。不安は募るが何としても国境を越え、中央アジア=シルクロードを走りたい!イスタンブールを出てからは黒海沿いを走った。黒海は波がほとんどなく、まるで湖の様に穏やかな海だった。そしてそこから、夏だというのにまだ雪が残る未舗装の峠道を越え、イランとの国境の村に向かう。村に着く手前で前方に巨大な山が姿を見せた。旧約聖書に出てくるノアの箱舟の話の中でノアたちを乗せた船が漂着したとされる、アララト山だ。周囲の乾ききった景色の中で、真っ白な雪を頂いた姿は確かに神々しい。オートバイを留めてしばらく見とれてしまう。アララト山の麓にある国境の村で、その晩は飲み納めとばかりに何本もビールを飲んだ。イランは1979年のイスラム革命以来、イスラム教に基づいた政教一致体制が敷かれている国で酒類は一切禁止されている。
オイルマネーと政教一致体制の国イラン
翌日、国境へ。イランはインドからトルコまでを貫く、いわゆる「アジアン・ハイウェイ」のルートとして、何人ものライダーがオートバイで旅をしたのだが、オートバイを持ち込むにはカルネという書類が必要で、それがなくては入れないことになっている。ぼくらも本来もっているべきで、いくつかの事情により今回はもっていない。しかし税関のボスが好意的だったお蔭で、無事入国することができ、約3時間で国境を越えた。賄賂の要求もなく予想外のスムーズさだった。イランを走り始めてびっくりしたのがガソリンの安さ。何と1リッターで約5円!さすが世界有数の産油国。そして、そのオイルマネーの恩恵だろうか。道路がとても整備されている。荒野を貫く幹線道は全てアスファルト化され、日本の地方国道より整備されていると思える。しかし、それに反比例してというか、沿道の家々はとても質素で日干しレンガを泥で塗り固めて作った、昔ながらの家が建ち並ぶ。話によると、石油輸出で国に入ってくる膨大な金に対して、国民の平均月収は5000円に満たないらしい。また、法律で女性は肌および髪を露出させてはいけないため、日中40度近い気温の中、真っ黒のチャドル(頭から足首まですっぽり隠れるマント)を着て歩いている。外国人女性も体の線が出る服や髪を露出するのは禁止されているので、スカーフを常にかぶっていなければならない。パートナーも、人ごみの中でヘルメットを脱ぐ時(イランでオートバイ旅行者はとても目立つ)など、かなり苦労した。そんな中を東へ進み、首都テヘランへ到着。ここで僕らはイランの家庭を訪問する機会に恵まれた。実はイスタンブール滞在中にイラン領事館で一組の夫婦と知り合った。旦那はイラン人のマスッドさん。奥さんはペルー人のフランシスさん。二人は出稼ぎ外国人として日本に滞在中に知り合い、結婚を決めたという。すでに嵐君という子もいて、これから3人でマスッドさんの両親に会いに行くということだった。「テヘランに来たら、寄ってください。歓迎します。」といわれていたので、その誘いに甘えることにしたのだ。
イランの家庭は、ヘンな言い方だけど全く普通の家庭だった。女性はチャドルやスカーフを脱いで普通の服を着て、酒もあるし、外国音楽や映画のビデオもあった。「ここにあるお酒や音楽は全部ヤミ商売の店から買うことができました。表立ってはいえないけれど、イランの80%の人は今の体制を支持していないはず。特に若い連中は制約だらけの現状に相当ストレスを感じている。実際武装闘争の準備もしているといううわさです。再び革命が起きる日も近いかもしれません。」 親戚が集まったパーティの中で、マスッドさんはそんなことを話してくれた。路上で見る宗教色一色の異様とも思える世界も、家に入ればぼくらと同じような生活があったことに妙な安心感を覚えた。反面、国の意向と国民の考えの余りに大きな差に、この国はどうなってしまうのだろうかと考えてしまった。
シーア派イスラム
マスッド夫婦に別れを告げ、テヘランを出発。カスピ海を過ぎると、道は本格的に荒野へ入った。沿道には時折、かつてらくだを引き連れたキャラバンが泊まった隊商宿なのだろうか、風化した名もない遺跡が捨てられた様に荒野にポツンと残っている。ぼくらは今まさにシルクロードの世界を走っているのだということを強く感じながら、アクセルを開けた。トルクメニスタンとの国境に向かう前に、マシャッドという町に滞在した。街の中心にイマーム・レザー廟という聖廟がある。ここはイラン・シーア派イスラムにとって、とても重要な聖地の1つ。異教徒は入れないのだが、どうしても中を見たくて行ってみた。他の多くの巡礼者と共に門へ進む。門の入り口には門番がいて参拝者のチェックをしている。直ぐにバレルかと思っていたら、そのまま中には入れた!このまま入っても中で異教徒だとばれたらどうなるのかとどきどきする。周囲の人の仕草を盗み見、いくつかの場所に口付けをし、祈りをささげるまねをしながら中心へ進む。内部は鏡のモザイクが施され、まるで万華鏡の中に入りこんでいるかのようだ。その中で人々は廟に向かい、声を荒げて祈りそして泣いている。その熱気と激しさに翻弄されながら、ぼくも人々と同じく廟に触れ、そして外へ出た。外の風にあたり、次第に冷静さを取り戻す内、宗教の奥深さと、この国とイスラム教の関係について改めて考えさせられた。